This is KANSOU

漫画を読んだり、アニメを観たりしたときの感想をアツいうちにしたためる

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||について感じたことの言語化

シン•エヴァンゲリオン劇場版:||。TVシリーズ新世紀エヴァンゲリオンを起点として、長々と続いてきたコンテンツに終止符を打つべく、20年ちょっと越しにあらゆる風呂敷をたたむため製作されたお話し。複雑すぎるしご存知の方が多いと思われるので割愛するけど、TVシリーズ→旧劇場版→新劇場版(序・破・Q・シン:||)みたいな感じで長く続いてきたコンテンツなのよね。

 

▼所感というより見るまでのレポ

見に行こう、と決めた。時は公開されてから初の休日。ネットでネタバレ的なものを踏むのも嫌で各種SNSを遠ざけるのも限界になってきたし、オタクの端くれとしてエヴァの最終章ともなれば見に行かない選択肢は無いし、さっさと行くしかない。楽しみというよりは義務として見届けようという気持ちが強い。

オンラインで予約してあったので余裕かましてスタバに寄ったらレジがとても混雑しておりギリギリになってしまった。ちなみに何か配布されている?ものは既に無くなっており、何だったんだろう、まあいいか……などと思いながら検温されつつ入場……のまえにトイレ。上映時間が長いのでギリギリでもお手洗いには行っておくのが吉と見た。

映画館のハコは3〜4割の埋まり方で、ソーシャルディスタンス的には一定の安心感がありつつ、破とかQのときは満員だったなあとご時世に思いを馳せる。

予告で大きなゴリラを見たりハサウェイがどうのこうのを見たり、定番の録音録画禁止ムービーなどを見ていたらいつの間にか暗くなり上映開始となった。

 

▼見終わった直後の率直な気持ち

さて、明かりがついて上映終了の合図だ。

おわった。すごかった。

でもなぁ、なんか……、と思ってしまった。待ちに待ったエヴァだったんだけどなあ、なんかモヤモヤするなあ、と思いつつ席を立ってふたたびお手洗いに向かった。

さっきと違う個室に入るか迷って結局同じ個室に入ってみた(どうでもいい)。

要するに、と帰りながら考えてみる。

作品はきっと悪くない。エヴァの話にケリをつけるという意味では色んな面で最高に良くできているし、あのエヴァがちゃんと終わり迎えたという時点で意義深く、立派な作品であった。これは間違いない。

では何故このモヤモヤか?私が期待したものと何が違った?想像以上にちゃんと終わったのに?

どうにか自分を納得させようと、ちゃんと終わったよ、よかったよと何度言い聞かせても、休日頑張って出掛けたことと得られた結果が釣り合ってない気がして損をした気分だった。

エヴァはちゃんと終わったので文句は無いはずなんだ……なんだこれ……とか思って疲れたので頑張って帰宅して速攻で寝た。

 

▼モヤモヤの正体

エヴァンゲリオン、その新劇場版よりも前の話は思春期の葛藤の話だった。

他人と関わるのが怖い。傷つくのが怖いし、ひとを傷つけてしまうのも怖い。自分の醜い部分を知りたくない。知らないふりをしたい。

その一方で、他人と心を通わせたい。認められたい。受け入れられたい。人と楽しく過ごしたい。自分を好きになりたい。

そんな対立が心の中でずっと起こっていて、エヴァに乗るとか乗らんとか色々な話の根底にあるのはずっと人と人がわかり合った気がしたり分かり合えなかったりする部分だったと思う。それが映像表現と強固に結びついていることがエヴァの醍醐味だと考えていた。妙なグロさとかも、不意に他人の心に踏み入ってしまったときのギョッとする感じや予期せず踏み入られた時の拒否感を生々しく想起さてくるので、初めて見た時衝撃だった。

生きていく上で、どうしても上手くいかなかったり、選択に悩んだり、後悔したり戸惑いながら、どうやって人は自らを肯定して生きたい気持ちを持ち続けられるのか。一歩進んだと思ったら何かを失うこともあるし、選べなくて最悪の結果になることもある。でも、怖くても、嫌でも、いつまでも誰かの庇護下に居られないからちゃんと責任を取らなくちゃいけない。

こういう段階に差し掛かって悩むのが思春期だとすれば、それを乗り越えながら社会と自分の折り合いをつけられるようになった段階が大人だと言えるだろう。

まさにこの葛藤が描かれていたのが"旧世紀"で、新劇場版シリーズではシンジくん(と他の皆さん)が葛藤をどうにか乗り越えて未来を掴むのを待っていたのだ、私は。

私が"シン"を見終わってちゃんとシンジくんが大人になったのも見届けて、ああよかったおめでとうって思った一方でモヤモヤしたのは、葛藤を乗り越えて折り合いをつけていく過程の手応えを感じられなかったからだった。

 

▼何故手応えを感じられなかったのか?

"シン"の物語の視点が、既に葛藤を乗り越えた側からのものだけのように感じたからだ。

例えば、言葉を覚える前の感覚を覚えた後に再現するのが難しいように。自転車に乗れなかった頃の感覚を、自転車に乗れるようになった後にはわからなくなるように。

上記のような葛藤は乗り越えた側から乗り越えられていない側に寄り添うことが難しい類のものなのかも知れない。

旧世紀のエヴァは当事者の物語だったけれど、"シン"は主人公が語り手になって話が綴られた(特に後半)。

製作した方々がどうこうというのは詳しくは無いので触れないが、長く作られ続けてきた間に"エヴァを終わらせる"という覚悟が作品自体の視点を乗り越えた側に昇らせたのだろうし、長く見続けてきた人々もそれぞれが一人ひとりの方法で大人になっていたことが根底にあるのだろう。

きっとそう言うことだ。例えれば、自転車に乗れなくてまだ練習している私が、自転車に乗れるようになった私から「練習するしかないし、してれば乗れるよ」とか言われたような。

だから、自転車に乗れないけど、何度も練習して転んで、ちょっとコツを掴んで、また転んで、ある瞬間に乗れるようになったそんな描写があったら、乗り越えようと戦っている側にも寄り添えるのかも知れないと考えて、乗り越える過程やその悩みを一緒に感じたかったのだと気づいた。

少なくとも、乗り越えようと戦っていた頃の私や、そういう葛藤の最中にあった"旧世紀"の過程を受け止められるようでありたいと願う。それは私にとって大切にしたいことで、願わくば一緒に手応えを感じて、未来を見たいと思わざるを得ない。

勿論、その部分について共感的でありたいかどうかは人によって違う。

特に父親との関係をクローズアップして描いているこの作品では、こういう描き方になるということなんだろう。

 

 

▼おわりに

そこそこ言葉にできたと思う。

ちなみに声優の聞き分けが壊滅的に出来ないので、帰宅してから最後のシーンでシンジの声が変わっていることを知った。