This is KANSOU

漫画を読んだり、アニメを観たりしたときの感想をアツいうちにしたためる

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||について感じたことの言語化

シン•エヴァンゲリオン劇場版:||。TVシリーズ新世紀エヴァンゲリオンを起点として、長々と続いてきたコンテンツに終止符を打つべく、20年ちょっと越しにあらゆる風呂敷をたたむため製作されたお話し。複雑すぎるしご存知の方が多いと思われるので割愛するけど、TVシリーズ→旧劇場版→新劇場版(序・破・Q・シン:||)みたいな感じで長く続いてきたコンテンツなのよね。

 

▼所感というより見るまでのレポ

見に行こう、と決めた。時は公開されてから初の休日。ネットでネタバレ的なものを踏むのも嫌で各種SNSを遠ざけるのも限界になってきたし、オタクの端くれとしてエヴァの最終章ともなれば見に行かない選択肢は無いし、さっさと行くしかない。楽しみというよりは義務として見届けようという気持ちが強い。

オンラインで予約してあったので余裕かましてスタバに寄ったらレジがとても混雑しておりギリギリになってしまった。ちなみに何か配布されている?ものは既に無くなっており、何だったんだろう、まあいいか……などと思いながら検温されつつ入場……のまえにトイレ。上映時間が長いのでギリギリでもお手洗いには行っておくのが吉と見た。

映画館のハコは3〜4割の埋まり方で、ソーシャルディスタンス的には一定の安心感がありつつ、破とかQのときは満員だったなあとご時世に思いを馳せる。

予告で大きなゴリラを見たりハサウェイがどうのこうのを見たり、定番の録音録画禁止ムービーなどを見ていたらいつの間にか暗くなり上映開始となった。

 

▼見終わった直後の率直な気持ち

さて、明かりがついて上映終了の合図だ。

おわった。すごかった。

でもなぁ、なんか……、と思ってしまった。待ちに待ったエヴァだったんだけどなあ、なんかモヤモヤするなあ、と思いつつ席を立ってふたたびお手洗いに向かった。

さっきと違う個室に入るか迷って結局同じ個室に入ってみた(どうでもいい)。

要するに、と帰りながら考えてみる。

作品はきっと悪くない。エヴァの話にケリをつけるという意味では色んな面で最高に良くできているし、あのエヴァがちゃんと終わり迎えたという時点で意義深く、立派な作品であった。これは間違いない。

では何故このモヤモヤか?私が期待したものと何が違った?想像以上にちゃんと終わったのに?

どうにか自分を納得させようと、ちゃんと終わったよ、よかったよと何度言い聞かせても、休日頑張って出掛けたことと得られた結果が釣り合ってない気がして損をした気分だった。

エヴァはちゃんと終わったので文句は無いはずなんだ……なんだこれ……とか思って疲れたので頑張って帰宅して速攻で寝た。

 

▼モヤモヤの正体

エヴァンゲリオン、その新劇場版よりも前の話は思春期の葛藤の話だった。

他人と関わるのが怖い。傷つくのが怖いし、ひとを傷つけてしまうのも怖い。自分の醜い部分を知りたくない。知らないふりをしたい。

その一方で、他人と心を通わせたい。認められたい。受け入れられたい。人と楽しく過ごしたい。自分を好きになりたい。

そんな対立が心の中でずっと起こっていて、エヴァに乗るとか乗らんとか色々な話の根底にあるのはずっと人と人がわかり合った気がしたり分かり合えなかったりする部分だったと思う。それが映像表現と強固に結びついていることがエヴァの醍醐味だと考えていた。妙なグロさとかも、不意に他人の心に踏み入ってしまったときのギョッとする感じや予期せず踏み入られた時の拒否感を生々しく想起さてくるので、初めて見た時衝撃だった。

生きていく上で、どうしても上手くいかなかったり、選択に悩んだり、後悔したり戸惑いながら、どうやって人は自らを肯定して生きたい気持ちを持ち続けられるのか。一歩進んだと思ったら何かを失うこともあるし、選べなくて最悪の結果になることもある。でも、怖くても、嫌でも、いつまでも誰かの庇護下に居られないからちゃんと責任を取らなくちゃいけない。

こういう段階に差し掛かって悩むのが思春期だとすれば、それを乗り越えながら社会と自分の折り合いをつけられるようになった段階が大人だと言えるだろう。

まさにこの葛藤が描かれていたのが"旧世紀"で、新劇場版シリーズではシンジくん(と他の皆さん)が葛藤をどうにか乗り越えて未来を掴むのを待っていたのだ、私は。

私が"シン"を見終わってちゃんとシンジくんが大人になったのも見届けて、ああよかったおめでとうって思った一方でモヤモヤしたのは、葛藤を乗り越えて折り合いをつけていく過程の手応えを感じられなかったからだった。

 

▼何故手応えを感じられなかったのか?

"シン"の物語の視点が、既に葛藤を乗り越えた側からのものだけのように感じたからだ。

例えば、言葉を覚える前の感覚を覚えた後に再現するのが難しいように。自転車に乗れなかった頃の感覚を、自転車に乗れるようになった後にはわからなくなるように。

上記のような葛藤は乗り越えた側から乗り越えられていない側に寄り添うことが難しい類のものなのかも知れない。

旧世紀のエヴァは当事者の物語だったけれど、"シン"は主人公が語り手になって話が綴られた(特に後半)。

製作した方々がどうこうというのは詳しくは無いので触れないが、長く作られ続けてきた間に"エヴァを終わらせる"という覚悟が作品自体の視点を乗り越えた側に昇らせたのだろうし、長く見続けてきた人々もそれぞれが一人ひとりの方法で大人になっていたことが根底にあるのだろう。

きっとそう言うことだ。例えれば、自転車に乗れなくてまだ練習している私が、自転車に乗れるようになった私から「練習するしかないし、してれば乗れるよ」とか言われたような。

だから、自転車に乗れないけど、何度も練習して転んで、ちょっとコツを掴んで、また転んで、ある瞬間に乗れるようになったそんな描写があったら、乗り越えようと戦っている側にも寄り添えるのかも知れないと考えて、乗り越える過程やその悩みを一緒に感じたかったのだと気づいた。

少なくとも、乗り越えようと戦っていた頃の私や、そういう葛藤の最中にあった"旧世紀"の過程を受け止められるようでありたいと願う。それは私にとって大切にしたいことで、願わくば一緒に手応えを感じて、未来を見たいと思わざるを得ない。

勿論、その部分について共感的でありたいかどうかは人によって違う。

特に父親との関係をクローズアップして描いているこの作品では、こういう描き方になるということなんだろう。

 

 

▼おわりに

そこそこ言葉にできたと思う。

ちなみに声優の聞き分けが壊滅的に出来ないので、帰宅してから最後のシーンでシンジの声が変わっていることを知った。

浅倉透の破壊衝動

シャニマスやってますか。以下、浅倉透に関してコミュのネタバレなどあるので要注意です。

 

 

浅倉透とは、一つの閉じた世界だと言えるんじゃないか……と考えたことを色々と書くことにした。

彼女のコミュ(エピソード)を読んでいると、"浮世離れしている""何を考えているかわからない""カリスマ性をもつ"描写が数多く登場する。

また、彼女は幼なじみの3人とユニットを組んでいるけれども、それはユニットというより幼なじみという側面が強く出たある種異色なアイドルグループとして描かれる。この点だけでも、浅倉透という世界のシステム(系と書きたいけど世界系という言葉になっちゃうんだよな)に共感していただけるPも多いのでは?

 

どこのコミュでだったか忘れたが、浅倉透とプロデューサーが一緒に高台から景色を眺めたとき、彼女が"この世界は誰かのものなのだろうか"と問いかける場面があった(この質問は彼女にとって非常に大切なものだろう)。初見時この場面で急に世界が出てきて何を言ってるんだこの子は……?になったが、これこそ"浅倉透"と"(Pのいる)世界"が単純に同等のものごとであると言える根拠の一つだ。同等のものごとというのは、例えが最悪だがふりかけAとふりかけBみたいな意味だ。

さまざまなコミュ内で、浅倉透と交流する人々(Pを含む)が彼女の独特のテンポにいつの間にか巻き込まれる様子が描かれている。この描写によって浅倉透のもつ影響力の大きさがわかる一方で、その影響下から脱したいわゆるいつも通りの世界も強調されるのだ。つまり彼女という世界は決してこちらの世界と交わることはなく、ただ重なり合うことで観測される。彼女が去った後、余韻のみが残り、それも減衰してやがて消える。彼女の変化を時系列で整理することが難しいのも、そのとき重なり合う領域自体が変化してしまうからとも言えるのではないか。

 

さて、浅倉透の世界の殻を、彼女自身半分気怠く思っていることはゲームの端々に登場する言葉から推測できる。しかし、その殻を彼女自身が破ることは出来ない(少なくとも感謝祭のシナリオまででは)。何故なら、居心地の良さも感じているからだ。幼馴染で構成された、ずっと続いていく世界。だから人工衛星は、遠心力(てことにしておく)と万有引力の力の釣り合いで、回り続けているのだ。(※ハウ・アー・UFOのコミュ)

人工衛星は、UFOではない。宇宙人も乗ってないし、マンモクスンも乗ってない。学校に落ちてくる隕石でもない。(※浅倉透と和泉愛依の会話)

ハウ・アー・UFOのコミュで大写しになるカメラレンズは、浅倉透の瞳の色によく似ている。そのコミュでの「め を やく」の台詞や、宇宙人が「侵略」しにやってくると言い切ることに、彼女の日常への破壊衝動が見受けられはしないだろうか。彼女の瞳から見える世界は、きっとスマホには写らないだろう。だから何度も写真を撮るのだ。

彼女(あるいは浅倉透を含む幼馴染たち)の世界に変革をもたらすのは、宇宙人が侵略して来るかマンモクスンが全てを破壊するかぐらいのことが手っ取り早いのだ。

 

ヤコウチュウ(ノクチルカ)は波打ち際で光る。

波打ち際とは自由と不自由の境界線と言い換えられるし、そもそも夜光虫が波打ち際で光るのは物理的な刺激に応答しているからということを踏まえると、浅倉透という世界が抱えるどうしようもなさが一層浮き彫りになる。

彼女がときどき破壊衝動のようなものを見せるのも、ヤコウチュウが光って綺麗なのだから当然なのだ。

東京女子図鑑を見た

Amazonプライムビデオでドラマ「東京女子図鑑」を見ました。

なんか聞き覚えあるなーって思ったら一時期流行った東京カレンダーのやつの映像化だったのね。あのコラムは、女の人生の区切りを"住む土地"っていう観点から切り取った感じのものだったかなと思います。三茶→恵比寿に引っ越すあたりとか印象的で流石東京カレンダーなんだよなーなどと喜び勇んで読んでいたのを思い出しました。

 

■所感

主人公の綾さん(演:水川あさみ)よく考えなくても美人だし努力家だし、課題に当たるごとに結果を出してるし、有能and有能and有能ですよね?

それでも満たされないものがあるっていう嫉妬の瞬間が去来するとき、剥き出しの空虚がこちらを見ているような怖さを感じました。

あと東京生まれ東京育ちのお嬢様方が無敵すぎてびっくりしました。

 

■満たされない怖さ

それにしても手に入れても手に入れてもまだ足りない恐ろしさよ。結局、主人公は自分の価値を他人からの羨望で定義するところから動かないから、他の人が自分より少しでも幸せそうにしていると自分の幸せ状態が揺らいでしまうわけです。そうしたら、他の人の幸せ状態を自分にトレース+αして、自分の方がその人より上にならないと幸せになれない。でもって、色々あった後地元に帰って大泣きするシーンに繋がります。昔進路指導してくれた先生と偶然出会って、「(羨ましがられる人になりたいっていう)夢を叶えて偉いねえ」「みんながこの記事(雑誌に載った主人公)を見ていいなーって目を輝かせてるよお」と言われてしまうのです。自分の夢が叶った実感も何も無いまま、幸せの見本として過去の自分を見せつけられてしまう。空虚な自分を鏡写しにしても空虚なんですよね。しかもその瞬間は過ぎ去ってしまっており……。

最終話ラストシーンまで、有り得たかもしれない自分の姿(という形をとった羨望そのもの)に嫉妬する。すさまじい問いかけの仕方だなあと思いました。

あと回想で出てきたシルバニアファミリーと、女の子は他人と自分を比べて足並み揃えて大きくなっていくっていう台詞のあたり、とても良かったです。幸せの象徴としてのシルバニアファミリー。主人公の手にあったものは紛い物で、しかもゾウでした。ゾウって……。

 

■本当にそれは隣の芝生なのか?

隣の芝生は青いとは言いますが、掲げられた大きな問題の本質は青さそのものの定義、ひいては芝生そのものの定義ではではないでしょうか。

自分が己の幸せ度合いを己で測定出来なければ、他人の価値観によって測ることになります。それは常に渇望を生むのです。こわいね。

 

 

頑張り屋さんの主人公に、心の底から幸せだと言える日が来ることを願って。

さらざんまい 5皿目までの感想

浅草、いいですよね〜!!

 

「さらざんまい」は幾原邦彦監督のアニメで2019年4月から放送してるやつです。一言で表すと、尻。

尻の描写がすごい。よくテレビで放送したなぁっていう感じ。

舞台は浅草、男子中学生3人がカッパ型生命体「ケッピ」に遭遇して""""尻子玉を抜かれ""""てカッパになって欲望フィールドでカパゾンビを倒して人間に戻りつつ色々進むストーリーです。わけわかんないな、これじゃあ。

見てください。

というか、よく考えなくても、紹介とかは公式サイトとかで良いはずなので、感想書きますね。

 

▼欲望を手放すな、君の命だ。じゃあカッパの命は?

欲望は君の命。そうだよね〜そうなんですわ。そうです。ありがとうございます、イクニ先生。

欲望はリビドーで、生きる衝動で、生命の根源ですからね。それを人間から抜くとカッパになる…ってことは、カッパは死んでるのかな?カッパにはカッパの尻子玉がある…のかな?っていうのが疑問です。

浅草ご当地アイドル、吾妻さらもどうやらカッパ型生命体になれるようです。作中で映るテレビ画面では、カッパ型生命体と吾妻さらが同時に存在してるので何とも言えないけれど、彼女の持ち歌も幽霊になった自分の歌ですからね。吾妻サラ≒カッパ型生命体の姫バージョンだと仮定しておきましょう。

少なくとも、ケッピとサラの「カッパ型生命体」と主人公達が変化させられるカッパとは形態が違うので、その辺も後々明らかになることでしょう。

ケッピは絶対にイケメンの王子様に変身するし悪いこと考えてるだろうな、とか予想して楽しんでます。

 

▼カパゾンビってなんですの?

それから、カパゾンビって何でしょうね?

カパゾンビって、カワウソ交番の二人組が、「欲望か愛か」「欲望搾取」「欲望を搾り取れ」とか何とか言って歌って踊ってカワウソマークを広げて作られてます。スマホの画面にカワウソマークが点灯して、欲望フィールドにゾンビとして転送される。で、奴から尻子玉=欲望を取ると、ゾンビの抱いていた強い欲望=人には言えない秘密がバレる。それをケッピに転送して消化(昇華?)すると、ゾンビは消える。つまり?ゾンビの存在は欲望とほぼ同一である?欲望フィールドに現れるゾンビそのものが、その欲望フィールドを出現させている?欲望フィールドはレイヤーのように現実の夜の浅草に重なっており、欲望フィールド自体も固有に重なり合っているのかも知れないなーって思いました。

だから、繋がれない、始まらない、終わらない者達がゾンビにされる。繋がらない秘密が強い欲望ならば、欲望だけを取り出した状態で存在していられるフィールドで、生きているけれど死んでいるゾンビってことなのかな、と。

で、それを何かのエネルギーにしている者がいるっぽいですね。生命力みたいなものですから、何かを動かす力なんでしょうか。

とりあえず、カワウソ的組織はケッピとは対立しているっぽい?ですかね…?あるいは、カワウソの組織や、交番の人達、吾妻サラと複雑な関係があって、ケッピが本当は何をしようとしているのか…!?っていうパターン。

カッパにさせられた3人は、ケッピによってそれぞれのフィールドに連れて行かれる。ケッピは、色んなフィールドを行き来できる力を持っているみたいです。

 

もー、続きが気になる!!!!!

本当は、24話くらいのボリュームでやってほしいですね。

巨大感情について(百合文脈)

リズと青い鳥」のブルーレイを鑑賞したんですよ。

劇場でも勿論観たんですが、画面の大きさが変わるとまた色々と違った良さが最高…と、いうのは置いておいて。

それで、一緒に観てくれたnot百合オタク(ユーフォは知ってる)の人がですね、「内容がわからない」「物語の伝えたいことが分からない」と。うーん、確かに、難しいかも知れない……そもそも起伏の大きなお話では無くて、高3の進路を決める時期に「自分自身は何になれるのか」「自分自身は何になりたいのか」という課題に向き合って、自分の将来の可能性を選ぶ=「選ばないものを決める」っていう、ある種の諦めに直面しなければならない少女たちの繊細な内面を描いたお話なんですよね。……と思ってる。

原作を読んでないこともあり、そんなに詳しい言及は避けますけど、一応主要な2人の女の子について紹介しておきます。

2人は親友、と言われるほど仲の良さそうな少女2人なのですが……どうも、そんな感じではない。お互いの見ているものが違いすぎて、どうしようもなく、すれ違ってしまう。お互いの欲しい言葉を、お互いにあげられない。

鎧塚みぞれっていう人物は、中学の時に1人だった自分に声をかけて友達になってくれて、「オーボエを吹く」ということを与えてくれた、傘木希美という人物が絶対的な存在。でも、希美は、みぞれ自身が頑張らないと側にいてくれない。以前、自分に何も言わずに吹奏楽部をやめた(しかも周りの人はみんな知ってた)ことが、見捨てられるという強迫になってる。

傘木希美は、みぞれの友達以上な好意/絶対視的な感情に気がつきつつ(人からどう思われているかについて非常に機敏)も、みんなの人気者として「ズルく」立ち回る。希美は音楽が、フルートを吹くのが好き。自分のフルートが上手だって認められたい。でも、自分の上っ面しか見てないようなみぞれの方が、プロから音大を勧められるほど楽器が上手い。嫉妬してしまうけれども、嫉妬を認めるということは、自分が下ということを認めることになる。だから、みぞれと仲がいいようにし続ける。

 

この時点で、感情描写が好きな人は悶絶しますよね!?

みぞれの欲しい言葉は、「みぞれが一番特別」であり、希美の欲しい言葉は、「希美のフルートが好き」なんだよね。多分。

このすれ違い、自我のぶつけ合い!!特に、みぞれの恐れや追いかけ続ける姿勢の描写。それから、持たざる者=希美の嫉妬、→諦めに至るまでの複雑な感情の推移なんかを本当に丁寧に掬い上げている映像で、触れたら壊れそうな世界を描いている。

こういう自我のせめぎ合いとか、一瞬が満たされないために永遠に対して絶望するとか、友達なのに嫌いになりそうとか、本当は好きだけどそれを認めたら自分が崩壊してしまうとか、…これが巨大感情なんですよ。

巨大というのは、多分、愛や憎しみの重さもそうだけれども、沢山の名前のない感情がこんがらがってしまったその幅?も指していると思います。

 

▼巨大感情の描写は万人向けの面白さなのか?

うーん、正直、否ですよね。

認めざるを得ない…。

そういった葛藤をエモいって喜ぶ人がいる一方で、自立して無さすぎて何の話にもならないって興味ない人もいる。

確かに、他の人にめちゃめちゃ影響されてしまうからこその混線した感情なのであって、自分の責任として納得して業を背負って、そこからどうするかというお話ではない。

巨大感情に焦点を当てる限り「何者にもなれない」あるいは「何かを失った」という自覚を得るまでの話になりがちかも知れない。そこからのサバイバル、そしてブレイクスルーという物語の方が、何の話なのか何を伝えたいのかハッキリしている。

でもでも、ほろ苦さや生々しい感情の解放について描写されてたりしたら、きっと心の何処かに閉じ込めておいた痛みを思い出す体験が出来ると思うんですよね。

それこそ大学生になったり社会人になったりすると、それまでヒリヒリとしていた心の痛みには蓋をして、自分でも届かない奥の方の部屋に閉まうことで生きていくんだと思います。そんなことない?

でも、たまには、その部屋を開けて、鮮烈な痛みに焦げ焦げになってもいいじゃない?

 

さてさて、結論としては、巨大感情をより多くの人の嗜好品にするためには、巨大感情の丁寧な描写も必要だけどもしかし、その後どこに行くか、ちゃんと結末や転換点としてわかりやすーく提示する必要があるのかな、と思います。

巨大感情、いいぞ。近しい同性の友達だから発生するものがあるんですよ。異性の友達はそもそもの生まれ持ったものや環境に差があるからきっと、上記の感じとは違うんですよね。精神と肉体の性別が違うと、また巨大感情の幅が色々違うのかも知れません。だれか教えて。

 

アイカツフレンズ!感想など

フレンズ!もひと段落して、次のシーズンから「ジュエル」をモチーフにした続編に移りますね。(ジュエル…ストーン…プリズム……)

アイカツシリーズで高校生が主人公って初めてじゃない?

また、同時に主要メンバーの髪型もチラホラ変わるみたいなのでとってもとっても楽しみ〜

 

▼フレンズ無印の総括的なやつ

構成がとってもしっかりしてて、安心して視聴できました。ありがとうアイカツフレンズ

 

ところで、どうしてアイカツ界の凄いキャラは海外に飛ばされてしまうの!?!?

ミライがカレンのことを引き止めてフレンズ結成というエピソード(嘘なんだけど)と対になってましたね。ミライ…泣きそうじゃん……。カレンはバッサリ「また、いつか。ミライ!」とか言ってて完全に前しか見てないし…君たち本当に離れても大丈夫なの?

 

フレンズはあいねちゃんの才能の開花と努力→成長、そしてみおちゃんが人を信じられるようになるエピソードでした。

あいね視点「出会い→アイドル始めました→結成→お休み(実質解散)→気づき→本気のアイカツ→再結成→友達百万人達成」

みお視点「ひとりぼっちのアイカツエリート→出会い→フレンズ結成→めっちゃ調子良い→あいねを信頼できず敗北→お休み→気づき→再結成→真の一人ぼっち脱却」

みたいな感じだったかな。

トモダチカラって結構ナチュラルに登場するみなさんは受け入れてたけども、それはどういうものなんだろ?コミュ力

カリスマ性、みたいなものかも知れません。まあとにかくアイドルにはぴったりの特技?才能?ってことか。ま、いっか!

 

でもでもでも、だよ。

フレンズ無印最終話で、「下らないことで喧嘩するくらい心許せるのがフレンズ」みたいなセリフとか、「友達って、なんだろ?違う人なのに、友達が嬉しいと自分も嬉しい。友達が悲しいと、自分も悲しい。以下略」みたいな二人モノローグ(?)があったんですが。ですが!

それ、ほんとに、友達?

下らないことで喧嘩する方が友達なのかなぁ。私はあまりそう思えなくてですね、うーん。

喧嘩、してもいいんだよ。だけど、描かれていたピュアパレットのものは依存関係に近い。

自分の感情や思考が、自然と相手にも伝わる気がする。思ったことを相手にぶつけて喧嘩しても、仲直りすればもっと仲良くなる。離れてても、ずっと一緒だよ。

そーんなわけ あるかーーい!

ズブズブの依存でしょう、これは。自他の境界が溶けてますよ〜。カンカンカン!

まぁ理想的にね?全てが美しくおさまるなら、もしかしたらそういうのもあるかも知れないよ。

でもさ、言わなきゃ自分の気持ちは伝わらないし、距離が離れてたら心は離れやすくなる。本音を伝えることと、喧嘩することは違うこと。感情のままに相手に言葉をぶつけたら傷つけてるだけだよ。

なーんて思うのは、"なんてこと無い毎日が特別になる"とか言っちゃう大人だからですかね。カフェオレ飲も。

 

SSSS.GRIDMANとは何だったのか

SSSS.GRIDMAN終わってしまいました……!どんなアニメもいつかは終わるんですが、それにしても1クールという期間で工夫を凝らして下さる、作画オタク的にも美味しいアニメでした。

はいドンドンネタバレしつつーの考えていきましょーう!ちなみに私はウルトラQウルトラマンウルトラセブンしか見たことないです。つまりグリッドマンの元ネタ?は何もわかんないから、わかんないなりに思ったことをつらつら書きます。

 

□説明をしないことで一貫しているアニメ

いやーこれ程までに説明を省いているアニメありますか?

まあ、冷静に、あるとは思うけどさぁ。うん。

1クール12話におさめる為に必要だった措置だ!!と言えますね。しかしそのおかげで、良く言えば、とにかく登場人物達の器が大きいことが描けていました。特に六花やウルトラシリーズオタクメガネ(名前忘れたけど脛に蹴りを食らう人)なんかは、大人と子供の境界線にいるから、持ちうる柔軟性を発揮していたのかなって思います。だって、怪獣が出てきちゃって、もうその存在と現実を突きつけられたとは言え。自分たちの世界を作った神様が見知った人間としてそこにいて、自分たちは神様の怪獣から生まれた、とか言われて、「神様にもかみさまの世界があるんだよ、きっと」とか言えたり「私たちが幸せかどうかは、私たちが決める」とか言い切る強さよ。お母さんなんかは店の商品に吸い込まれる推定無職の輩を見て「あどーぞどーぞ、続けて」とか「…行ってらっしゃい」とか苦笑いできたりするんですよ。

それもこれも結局、神様が優しかったのかなと思います。神様が生んだ街で、人々で、制御できない分もたくさんあったけれど、アカネちゃんの生きづらいほどに敏感な感受性が、柔らかな慈愛となって世界を包み込んでいた面もあるんだと思う。

同時にどうしようもない破壊衝動や、自分への怒りもあって。心に住む巨大な怪獣と、そんな怪獣が嫌いな自分と、本当は大好きな自分の世界と、大嫌いな自分の世界の間で苦しかったんだろうな。「怪獣は結局やっつけられる存在でしかないのかな」「怪獣は、本当は主役だと思うんだよ!」とか(不正確)のセリフが染み入ります。怪獣になりたくない/それでも荒れ狂う心は怪獣でしかない/だから本当は誰かに怪獣である自分ごと愛して欲しいっていう苦しみよね。

結局、色んな世界(アカネ本来の世界とか、ハイパーエージェントの世界とか)があるんだろーなー、みたいなのは、観てる人がなーんとなくフーンって思うくらいの扱いでしかなくて、アレクシスさんの正体も結局よく分からず(不死って…なんじゃ?流石宇宙人は違うな〜 あとグレンラガンのキャラにしか見えないなー)、新しい技名はどんどん説明なしで出すし(あー名前ついてるんだ!へー)、怪獣少女とのいきさつも想像するしかないし、本当に何も説明しない。そんな説明じゃなくて、描きたいものだけにフォーカスを当てざるを得ないその尺の足りなさ……つ、つらい。ダxフラよりこっちに2クールあげてほしい!と思わざるを得ない。なーんとかギリギリまとめて、一番描きたいシーンは描いて、単位だけとりあえずとった!!!みたいな印象を受けました。

もう、仕方がない。グリッドマンの二次創作ですよ。これは。前提となる部分や伝統の円谷オマージュは、一次創作グリッドマンウルトラシリーズを知っている人にしかわからんよね…。

グリッドマンの最終形を見て、え?ウルトラマン…!?て思ったよ私は。いきなりウルトラマンになったよね?

 

□微妙な伏線に対する微妙な回答の考察

・アレクシスとは?

わかんない。コンピュータウイルスみたいなもんなんですかね?修復ビームを浴びて断末魔をあげていたし…。命が限りない(本人談)ために内面に虚無を抱え、強い情動を持つ生命体を煽って煽りまくってそのパトスを取り込むのが生きる意味になってしまっている、なんていうか、カワイソーな感じのザ・悪役なのかな。立花の「えっ…大丈夫なのあの人?なんかめっちゃ燃えてない?」に共感した。なんで燃えてるんですかね?不死のわりにエネルギー消費しすぎでは?

・目の色

青、黄色、赤に限定されてましたね。最後でアンチくんの眼帯が外れて、赤い瞳が青くなって、オッドアイになってました。

赤い人は…アカネちゃんとか、怪獣少女とか、アンチくん。

黄色い人は、立花のママと、グリッドマン

青い人は、普通の住人…というか味方?

立花のママは本当によく分からない存在なんだけど、ジャンクショップを経営してたりするし…何か元ネタがあるのかな?と思います。アレクシスさんはサングラスしててよくわかんない。

 

---

と、ここまで下書きに保存してたんだけどだいぶ時間が経ってしまったのでそろそろ公開するか破棄するかどっちかにしようかな。付け足して公開するか。

 

言うまでもなく、一番印象的なシーンは、最後の「神さま、お願い」のところですよね。

感情〜〜〜!!!!!!

二度と、二度と六花ちゃんたちの世界に篭らずに、アカネちゃんが生きていけるように。アカネちゃんの生み出したはずの世界は、アカネちゃんの箱庭だったはずなのに、制御不可能なノイズの発生etcによっていつのまにかそれぞれの人物が自我を獲得した。そしたら、創造主の想像を超えて、ズルくて酷いアカネちゃんのことを、一生懸命救おうとしてくれた。

六花の、自分が生まれた理由が「友達である」というそれだけで十分だと言い切る強さと美しさよ…。

友達だから、って一言で片付けてしまえないほどに愛に満ちた、「二度と会えないように」願う心の…なんという……まさに「君が待っていてもいなくても走るよ」ですね。

トゥルーエンドって感じ。愛は神様をも包むんだよ。

 

アカネちゃん、元気に過ごせてるかな。きっと大丈夫だよね。私もアカネちゃんが自分の世界で自分の使命に向き合えることを願っているよ。