アニメ「少女歌劇レヴュースタァライト」 考察と感想
全部見た前提でお話しします。つまり、徹頭徹尾ネタバレってことです。自衛してくださいね。
【キリンの存在について】
こっち見たーー!!!ってなりました。え?なんなかった?私は流石に予想外でしたよ。うわっ!て。してやられたー。
我々もまた、舞台少女の葛藤、努力の軌跡、それを全て投入し研ぎ澄ませた真剣勝負に魅入られる。つまり、キリンと同じ存在だと、そういうことを突きつけられてしまいました。
キリンは、円環の象徴だとも思っています。キリンのマークについた輪っか。輪廻のリン。くるくる回る印。本当に見たいものが眩しくて眩しくて、執拗に首を伸ばして、時々気持ち悪いまでに、少女たちの輝きをぼんぼこ燃やしながら、戦わせる。
確かに、私も、視聴者我々も、そういう存在です。こういう、お前もじゃお前も!見てるだろ!そういうキモいところだよ!みたいな指摘、エヴァでもされちゃった気がする。
思えば、アニメ中では不自然なほどに観客の描写がありませんでした。東京タワーの売店で、ヒカリと華恋が「いつのまにか人だかりがー」みたいなこと言ってた時も、誰もいなかった。(…よね?)
華恋が駅にいても、水族館にいても、学園の外との交流がほとんど存在しなかった。違和感バリバリですよね。不思議な力の作用する学園という装置が、…だけじゃないんです。きっと。
描写の仕方としては、観客が出てきて、少女の演技に見入って息を呑み…一瞬の後に大歓声!なーんて場面を入れると、演技の凄さがとっても伝わりやすいでしょ?それを捨てても表現したい何かがある。
あと、みんな思ってるけど、キリンは、東京タワーのシルエットにそっくり。だからキリンがモチーフになった、というのも然り。タワーかキリンか、物語の塔か、高い星か、何が最初なのかは見てる我々にはわかることではないですが、見事にリンクしてて気持ちがいい。
ところで、キリンの首が長い理由。より正しい表現をすると、キリンの先祖のなかでも首が長い個体が有利だった、とされる理由は、足が長いのに立ったまま水を飲めるので逃げる時有利なためらしいです。一番高いところを目指すためではなく、足元の、灯台下暗し〜ってところに、本当に欲しいものがあったってわけ。
【仕組まれたオーディション】
ピロラリルン ♪ピロラリルン〜♪さあ、お持ちなさい、あなたの望んだその星を。
あのオーディション、最初から仕組まれていますね、絶対。
イギリスでは、ヒカリちゃんが参加するようにキリンとお話ししてたとき、勝者は最初から見てた。
こっちのオーディションでも、ばななのスカウトのされ方は少し違った。もっとも、キリンとばななの見てる眩しいものは同じで、ばななが本当に欲しいものも…実は、度重なる再演ではなかったけど。だって、それじゃあ届かないから。運命の舞台のためにコマが、役者が揃うまで、みんなのばなながリテイクする必要があったのです。
【トップスタァと燃料】
オーディションの勝者は、トップスタァになれる。望みを叶えることができる。万能願望機っていうともう聖杯かな?って感じだけど、まぁ発想としては遠いものではないですよね。一人の望みを叶えるために、トップスタァになるために、くべられる燃料とは何か。某聖杯戦争だと、xxを何体以上…みたいな感じだったけど、このスタァライト本編では「キラメキ」「大切なもの」みたいな表現だったと思います。あえて言葉にするなら、憧れ、でしょうか。
思うにトップスタァとは、次元・時空を超えた存在です。
オーディションでは、とりわけ舞台で煌めく覚悟の強い、既に選ばれた少女達から更に選ばれた者を戦わせます。研ぎ澄ませた舞台への思い、互いに高め合う努力の積層、燃えるような焦燥感。ジェットコースターのてっぺん状態に高めた、舞台少女たちの憧れを全て刈り取って、手に入れることができるのは時空を超える力なんだと思います。
トップスタァになれる。時空を超えた存在になる。その力を再演に使ったのがばななちゃんでした。ばななちゃんだけが記憶のあるまま、時間を巻き戻すことができた。時空超えてますね、わかります。
【運命の舞台】
珍しくも観客らしい観客として出てきた、幼い頃のヒカリちゃんと華恋ちゃん。彼女らが目撃したのは、運命の舞台でした。それは、華恋ちゃんを守る為にひとり犠牲になって磨り減っていくヒカリちゃんを、華恋ちゃんが救い出すお話。賽の河原で石を積むヒカリちゃんを連れ戻す舞台。ふたりの約束は、強い憧れだったから、運命の舞台で約束された輪になった物語だったから、どんな時でもふたりを支え続けた。一人のものじゃない、二人の間にあるものは、少女にとって一瞬でも永遠でもある、許しと遠い星への強い強い願いと憧れです。そしてそれは、本当は遠い星じゃない。大切なキラメキのもとは本当に身近なところに、お互いの間にあるから、二人は手を取り合って歩むのです。
ま、舞台少女は何度でも蘇るらしいですから。キリンもね。
現実でも同じですね。スタァライトのお話は、アニメだけじゃなく、ゲームや舞台でも演じられる。
【幾原邦彦だったら…】
いや、ついつい考えてしまうんですけど。あんまり良くないかなーとわかりつつ。
これだけ氏の影響を感じる作品ですから、正直いうと、私は学園なんて全部ぶっ壊して二人が外へ出ていくかと思っていました。蠍の炎に焼かれても、何故か車に変身しちゃっても、意味わかんない学校とか壁の内側なんて抜け出して、ふたりの約束を叶えるために、外の世界へ一歩踏み出すかと。
学年が変わった時に消えた上履きが伏線だと思ってましたよ。違った…。
友達から全てを託され外に出る、あるいは全てを救って自分達が犠牲になる、なんてことしたらお話終わっちゃうし、仕方ないですね。いや、ふつうにそういう話じゃなかったってことだと思いますけど。
少女達は舞台を演じる。舞台に囚われているとも言えますが、それは私たち観客も同じこと。
アタシ再生産は、舞台に立つ為に行うことができる。舞台を降りることは、そもそも彼女達の矜持とは反することなのですね。何度でも何度でも舞台に立つ。どんな舞台でも、ポジションゼロを争いながら、華麗に演じきる。ならば、「外の世界」を求めて学園から出る必要もない。舞台自体が、外の世界に通じているから。
ま、すべてぶち壊さなかったのは大人の事情とかもありそうです。ソシャゲとか展開しづらいし。
そんなところです。またなんか考えたらなんか書くかも。
チャオ〜